“手探りで進む者たち” (The Fumblers) 外伝 この手に掴んだ生命 |
2004/02 |
◆ プロローグ | 5.託された命 |
1.欲望の魔手 | 6.覚悟と閃き |
2.小さきものへの誓い | 7.ヴィクトールが遺したもの |
3.届かぬ刃 | 8.目覚めた場所は |
4.この身を盾へと変えて | ◆ エピローグ |
〔執筆者あとがき〕 |
プロローグ |
初夏の風が、遠くせせらぎの音と水の匂いを運んでくる。 水の精霊の加護を賜るアムドゥシアス地方。 その辺境を、二人の旅人が連れ立って歩いていた。 一人は、筋骨逞しい長身の老人。 身に纏った金属の鎧は日の光を反射して鈍い輝きを放ち、腰に帯びた剣はいかにも使いこまれている。 もう一人は、まだ二十歳にも届かないであろう少年であった。 背丈は老人よりも幾分か低く、この地方に馴染みのない、異国風の服を着ている。 彼も剣を帯びていたが、こちらはまだ真新しい。 「――だから、大人しく家に帰れと言っておるじゃろうが」 老人が呆れたように溜息をつきつつ、傍らの少年に声をかけた。 「帰るつもりはねぇ。しつこいぞジジィ」 少年が、やや乱暴な口調で答える。 漆黒の瞳が、老人の青い瞳を真っ直ぐに見据えていた。 「おぬしも強情だのう。このクソガキめ」 何度目かもわからない溜息を再びつき、力無く呟く老人。 その言葉に、少年は露骨に眉を顰めた。 「ガキじゃねえ。シロー・オサフネだ」 シローと名乗った少年が、老人に食ってかかる。 それを内心微笑ましく思いつつ、老人はさらに言葉を返した。 「そんな立派な名前は勿体無い。おぬしなどクソガキで充分じゃ」 「何だと、このクソジジィ!」 肩まで不揃いに伸びた黒髪を揺らし、シローが怒鳴る。 老人は、さも意地悪そうに口の端を持ち上げて笑った。 「クソジジィではないわ。ワシはヴィクトール・ハインガットじゃ」 シローの口真似をしつつ、からかうように顔を見やる。 少年は一瞬何かを言いかけたが、舌打ちして横を向いてしまった。 その背中に、老人――ヴィクトールが含み笑いを漏らす。 「ふ、まだまだ青いのう」 「何か言ったかジジィ」 不機嫌そのものの表情で振り返ったシローだったが、その時、ヴィクトールが片手で彼を制した。 「――ちょっと待て」 「人に喧嘩売ってその態度か、いい度胸だなジジィ」 「この阿呆が、いいから少し黙っておれ! ――耳を澄ましてみい、何か聞こえんか?」 表情を引き締め、厳しい口調でヴィクトールが言い放つ。 その迫力に気圧され、シローも思わず口を噤んだ。 彼もヴィクトールに倣い、聴覚へと意識を集中させる。 「ガキの声か?」 微かに、風が子供の悲鳴らしきものを運んでいた。 「ああ。どうやら、ただ事ではなさそうじゃな。 ――ふむ、ちょっと様子を見てくるとするか」 言うが早いが、ヴィクトールは一人で走り出していた。 重い鎧を纏っているにも関わらず、その動きは羽が生えたように軽い。 そろそろ七十歳に届こうかという年齢ではあったが、まだまだ若者に負ける気はしないヴィクトールである。 「な、待ちやがれジジィ!」 シローの声と足音が、慌てて彼を追った。 |
1.欲望の魔手 |
辿り着いた時、ヴィクトールの瞳に映ったのは血に濡れて地に伏す幼い少女と、抜き身の剣を手に彼女に迫る一人の男の姿だった。 「そんな幼い子供相手に何をしておる?」 どんな事情があろうとも、子供を傷つける者を許すわけにはいかない。 剣を抜き、怒気を湛えて構える。 男は予想外の闖入者に驚いたのか、一歩後退さってから振り返った。 ヴィクトールの姿を認め、舌打ちとともに鮮血の滴る剣の切っ先を向ける。 その瞬間、剛剣が唸りをあげた。 「愚か者めがっ」 剣閃が瞬き、一瞬のうちに男の得物を叩き折る。 呆然と立ち尽くす男の喉元に剣を突き付け、ヴィクトールは力を込めて睥睨した。 「ワシの名はヴィクトール・ハインガット、人呼んで“愛の伝道師”。 ついさっき、小五月蝿い盗賊どもを片付けたばかりでのぅ。 ――おぬしも屍に加わってみるか!?」 息を呑む音が、はっきりとヴィクトールの耳に届く。 男が地面に転がったのは、その数瞬後のことだった。 「ジジィ!」 背後から走り寄るシローの声にも振り返ることなく、ヴィクトールは倒れた少女を抱き上げていた。 刀傷が背中を真っ直ぐに貫いており、多量の血液が流れ出ている。 明らかに致命傷だ。――おそらく、助かりはしないだろう。 少女を一目見るなり、シローも言葉を失い立ち尽くした。 たとえ救えない命であっても、何もしないで見ていることなどできない。 ヴィクトールは自分のマントを裂き、無言で止血を始める。 治療の魔法でも使えれば、せめて苦痛を和らげるぐらいはできたかもしれない。 こんなことしかできない無力が、辛かった。 「今、医者に連れていってやるからな。もう少しの辛抱じゃぞ……」 ヴィクトールが優しく声をかけると、少女を薄く目を開けて彼を見た。 どこか遠くを見るような、死にゆくもの独特の瞳。 歳の頃は十歳を過ぎたばかりだろうか。あどけない顔は、無残に痩せて衰弱しきっていた。僅かに呻く声すら弱々しい。 「……お、おじい……ちゃん?」 か細い声とともに、鮮血が少女の口から溢れる。 「喋るでない。傷に障るぞ」 「……け……て」 吐息のような囁きが、少女を気遣うヴィクトールの声に重なった。 「何じゃ?」 顔を近づけ、耳を傾けるヴィクトール。 その彼に、少女は必死に訴えかけた。 「……ま、まだ……ほかの子たちが……いっぱい、いるの……。 わたし……っしょうけんめい、にげたけど……みつかって……」 少女の瞳が、一瞬力を取り戻したように熱を帯びる。 失われゆく命と引き換えに、ヴィクトールに伝えようとしているのだ。 ――他にも、助けを求める者たちがいることを。 「は……やく、たすけて……あげて……」 「わかった。必ず助けるから安心せい」 徐々に冷たくなりつつある小さな身体を抱きつつ、ヴィクトールが力強く答える。 そんな彼の瞳を、少女が真っ直ぐに見上げた。 「や……やくそく……」 「ああ、約束じゃ」 その言葉に安心したのか、幼い顔が微かに笑みの形を作る。 少女は大きく息を吐き、そのまま瞳をゆっくりと閉じた。 腕の中の重みが、僅かに増す。今、一つの命が天に召されたのだ。 よく見ると、少女の身体は全身が傷だらけであった。 切り傷、刺し傷、火傷、大きいもの、小さいもの、新しいもの、古いもの――幾重にも重ねられたそれらが渾然一体となり、天使の肌を苛めている。 これが人間の仕業だというのか。こんな、執拗で残虐な仕打ちが。 「くそったれが……っ!!」 少女を強く抱き締め、ヴィクトールは憤怒を込めて唸った。 |
2.小さきものへの誓い |
真新しい土饅頭の前に、沈痛な面持ちでヴィクトールとシローが立つ。 とうとう名を知ることもなかった、悲運の少女の墓であった。 件の刺客は、あらかた情報を聞き出した後に縛り上げて放り出してきた。 あのような男の血で、少女の眠りを妨げる必要はない。 墓標代わりに置かれた石を見つめるヴィクトールの脳裏に、先ほど聞き出した黒幕の名前が浮かぶ。 ――ヨハネス・オットー・マンシュタイン。 このあたり一帯を支配する地方領主であり、少女を監禁していた者。 表向きは慈善家として、身寄りのない孤児を数多く引き取っているらしいが……。 その裏で、歪んだ欲望の犠牲になった子供達がどれくらいに上るのか、考えたくもない。 男はマンシュタインの命を受け、少女を追ってきたのだという。 彼の主人は、逃がすくらいならば殺せと命じたそうだ。 自らの保身のため――子供とは言え、証人となり得る者の口は塞いでおくということか。 今、ヴィクトールの胸中は純粋な怒りに満たされていた。 自らも亡き妻との間に五人の子供をもうけ、それぞれに孫たちも誕生している。 その、愛する子供や孫たちがこのような目に遭うとしたら――想像するだけで、胸が張り裂けそうだ。 「ジジィ、行くんだろ」 感情を押し殺した声で、シローがヴィクトールの背中へ声をかけた。 「駄目じゃ」 「俺はまだ何も言ってねえ」 にべもない返事に、語気を荒げるシロー。 とうとう堪えきれなくなったのであろう。彼の全身からは激しい怒気が感じられた。 少年の意図は、訊かずともわかる。 「どうせ、自分も連れていけとか言うつもりじゃろうが」 案の定、シローが大きく頷く。 「あれを見て、黙ってろってのか」 「そうは言っておらん」 眉一つ動かさず、淡々と言葉を返す。 「じゃあ何だよ」 「わからんか? ――なら、馬鹿にもハッキリわかるように言ってやるわい」 それでも引き下がろうとしないシローに、ヴィクトールは初めて彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。 今までは決して見せなかった、厳しい戦士の表情を浮かべて。 その迫力に気圧されたのか、シローが僅かに一歩下がる。 「今のお前は足手纏いにしかならん。ついて来たとしても、死ぬのがオチじゃ」 叩きつけるようなヴィクトールの声。 その宣告に、シローは目を大きく見開いて硬直した。 唇を強く噛み締め、身体を震わせながら下を向く。 仮にも戦士を志す者にとって、足手纏い呼ばわりされるほど屈辱的なことは無い。 ヴィクトールはそうと知りつつ、あえてそれを実行せねばならなかった。 理由はただ一つ。シローを死なせたくないのだ。 無鉄砲で、まだ荒削りな戦士の原石――どこか、若かりし頃の自分を重ねてしまう存在。 磨けば化けるかもしれないと思いつつも、戦いに明け暮れる人生は歩んで欲しくないとも願ってしまう。 どちらにしても、ここで命を落としては未来はないのだ。 何としても、失なわせるわけにいかない。 ヴィクトールはいつもの表情に戻ると、ことさらに軽い調子で言った。 「心配するな、おぬしの分までワシがきっちり始末をつけてやるわい。 近くの村で待っておれ。何、終わったら迎えに行くから安心せい」 シローは珍しく考え込んだ様子を見せていたが、やがて舌打ちしつつも横を向く。 「ちっ! ばっくれんじゃねぇぞ、ジジィ」 そう言うが早いが、肩をいからせて歩き出すシロー。 遠ざかる背中を見送った後、ヴィクトールもまた出発した。 ――少女と交わした誓いのために。 |
3.届かぬ刃 |
豪奢な屋敷の廊下を、ヴィクトールは一人駆け抜けていた。 すでに、ここに来るまでに幾人もの護衛を叩き潰してきている。 ――目指す場所はただ一つ、この館の主マンシュタインの自室。 本来ならば捕らわれた子供達を探したいのだが、どうやら屋敷の奥深くに幽閉されているらしく、一向に見つけることができない。 だとすれば、全ての元凶を叩くのが最も手っ取り早い方法だろう。 至って単純な理屈ではあるが、大抵の場合はこれでケリがつく。 つかなければ、それはその時に考えれば良いのだ。 「ここか。――やれやれ、老いぼれにはこたえるわい」 ヴィクトールの眼前に、ひときわ立派な扉が姿を現していた。 決して悪い趣味ではないのだろうが、主の実態を思うとそれも禍禍しく思えてくる。 「一つ、踏ん張るとするかの――湧いて来い、ワシの力っ!」 呼吸を整え、ヴィクトールは気合とともに扉を叩き破った。 そのまま、勢いに任せて雪崩れこむ。 扉の破片が舞う中、目標の姿を探した。 部屋の最深部、大きな暖炉の前。求めるものは、そこにいた。 繊細な意匠の洋服を纏い、整った面に歪んだ笑みを貼り付けている男。 悪しき地方領主、ヨハネス・マンシュタイン―― 「これはこれは。ようこそお越し下さいました、旅の剣士の方」 左右に護衛とおぼしき戦士を従え、マンシュタインがやけに芝居がかった口調でヴィクトールに声をかける。 護衛に絶対の信頼を置いているのか、剣を手に踏みこんだ彼を見ても全く動じていないようだ。 ヴィクトールは、剣を両手に握り直すと一歩前に出た。 「歓迎の言葉などは要らん。それより、子供たちを返してもらうぞい」 「残念ながら、それには応えられませんね」 笑みを崩さぬまま、マンシュタインがにこやかに答える。余裕綽々といったその態度が、何とも腹立たしい。 「ならば、力ずくで取り戻すまでじゃ」 苛立ち混じりの口調で、さらに歩を進める。 その時、マンシュタインの瞳が悪魔の如く陰惨な輝きを放った。 「――どうぞ。できるものならね」 くつくつと笑いながら、指で窓の外を示す。 視線をそちらに向けた時、ヴィクトールは己の目を疑った。 「なっ……!?」 屋敷の裏に、ひっそりと佇んでいる小さな離れ。 そこから火の手が上がり、炎と黒煙を勢いよく巻き上げていた。 「私にも、立場というものがございましてね。 証人さえいなくなれば、私の地位は安泰というわけです。 折角集めた“コレクション”を失うのは辛いことですが」 ――この男は、己の保身のため子供達を皆殺しにしようとしているのか。 一瞬真っ白になった意識は、すぐさま激憤の赤へと塗り替えられた。 「こ……この外道めがっ!!」 剣を握る手に力が篭る。 この男だけは生かしておくわけにいかない。ここで、禍根を永久に断つ。 そう思った時、ヴィクトールの脳裏にあの少女との約束が蘇った。 ――早く、助けてあげて。 その声が、彼の理性を辛うじて繋ぎとめた。 殺気はマンシュタインに向けたまま、踵を返して元来た入り口へと向かう。 このような腐った男の命よりは、子供たちを救い出すのが先決だ。 しかし、その行く手をマンシュタインの護衛が阻む。 「……そこを退けぃ」 剣を構え、低く呟くヴィクトール。 それに構わず、護衛たちが彼に迫る。 背後に、マンシュタインの嫌らしい笑みが見えるようだった。 「邪魔だと言っておろうが、この阿呆どもがっ!」 怒号とともに、豪腕から繰り出されるす剣が激流と化す。 瞬く間に護衛の戦士を蹴散らすと、ヴィクトールは廊下へと駆け出していた。 マンシュタインは己の目的と保身のためには手段は問わない。 逃亡した少女に対する対応を考えれば、当然考慮すべき事態だった筈だ。 「――くそがっ!!」 叫びながら、ヴィクトールは初めて己の判断を呪っていた。 |
4.この身を盾へと変えて |
ヴィクトールが離れへと辿りついた時、既にそこは火と煙の海と化していた。 大方、油でも撒いたのだろう。炎の勢いは予想以上に強く、奥の部屋まではとても辿りつけそうにない。 炎と煙に呑み込まれて行く子供達の姿を想像し、強く奥歯を噛み締めるヴィクトール。 ――ふと、その耳にか細く咳き込む子供の声が聞こえた。 急いで周囲を見渡し、声が聞こえてきた方向を探す。 木製の、厚く簡素な扉。耳を当てると、そこから微かに咳の音が聞こえてきた。 間違い無い、この向こうに誰かがいる。 「大丈夫か!? 安心せい、すぐに助けてやるぞ。 今この扉を破る! 危ないから下がっておれ!」 叫ぶが早いが、身体ごと扉にぶち当たるヴィクトール。 彼自身と、纏った鎧の重量が扉を大きく軋ませた。 やがて蝶番が弾け飛ぶと、ぶら下った扉を蹴り飛ばして室内へと滑りこむ。 煙で視界がきかなくなっていたが、随分と狭い部屋であることは認識できた。 石造りの床、鉄格子がはめ込まれた小さな窓。どう見ても、牢獄以外の何物でもない。 その片隅で、ヴィクトールは力無く横たわる少女を見つけた。 咳き込む小さな身体を、慌てて抱え上げる。 彼女は怯えたように身を竦ませたが、その抵抗はあまりに弱々しかった。 「しっかりせい。すぐにここから出してやるからな」 ヴィクトールの言葉に、少女が薄く目を開け、彼に顔を向ける。 死んだあの娘同様、年の頃は十を越えたばかりに思えた。 小柄な、痩せた身体。可憐なドレスを纏っていたが、そこから覗く手足には無数の傷跡が刻まれている。その対比が、何とも痛々しい。 長い銀髪も、その下に隠れた白い肌も、煤で真っ黒に汚れていた。 大きな紫紺の瞳が、ヴィクトールの姿を虚ろに映す。 「可哀想に、怖かったじゃろう」 ヴィクトールは少女に優しく声をかけると、そのまま牢獄を後にした。 他の子供達の安否も気にかかるが、まずはこの娘を安全な場所へと連れていくべきだろう。 廊下に出た時、火の手はもうすぐそこまで迫っていた。 炎を目の当たりにして、少女がヴィクトールの腕の中で身じろぎする。 「うあっ……あぁああっ!!」 「どうした!? 大丈夫じゃ、心配は要らん!」 少女の行動が恐怖によるものと解釈したヴィクトールは、それを和らげようと力強く答えた。 しかし、彼女はなおも手足を激しくばたつかせている。 その瞳は、食い入るように炎の奥を見つめていた。 「スヴェータ……スヴェータっ!!」 おそらくは、同じくここに捕らわれていた子供の名前だろう。 姉妹か、友達か――どちらにしても、今それは炎の中に失われようとしている。 ヴィクトールは苦い思いで、再び少女を強く抱えた。 そのまま、強引に館の入り口へと動く。 「あ……あぁっ!!」 突如、少女が凍りついたように頭上を見た。 轟音とともに天井に大きく亀裂が走り、そこから炎と煙が漏れる。 「――いかん!」 瞬く間に、それは灼熱の瓦礫と化して二人の上へと降り注いだ。 全身を刺すような痛みと熱さ、そして圧し掛かる重みでヴィクトールは目を覚ました。 気を失っていたのはおそらく一瞬だったのだろうが、とっさに状況が思い出せない。 ――そうだ、あの娘は? ヴィクトールが顔を上げると、眼前では少女が怯えた様子で座り込んでいた。 どうやら怪我はないようだ。それを確かめ、心の中で安堵する。 頭でも撫でてやろうと思ったのだが、手を動かすことはできなかった。 その時初めて、自分が瓦礫の下敷きになっていることに気付く。 「出口はもうそこじゃ、早く逃げろ」 ヴィクトールの言葉にも、少女は呆然と腰を抜かしたまま動かない。 充満する煙と熱を考えれば、ここもそう長く保たないことは明らかだった。 このままでは、彼女まで炎にまかれてしまう――。 その時、聞き慣れた少年の怒号が響いた。 「ジジィ! 何やってやがる!!」 入り口から駆けこんで来たシローの姿を見て、ヴィクトールの顔が苦笑に歪む。 言いつけを破って、ここまでやって来てしまったのか。 「待っておれと言ったろうが、このクソガキが!」 「うるせぇ、大口叩いてこのザマか!」 怒鳴るシローに、ヴィクトールは口の端を持ち上げ笑ってみせた。 この状況は、考えようによっては有難い。 「――丁度良いところに来たわ。その子を連れて逃げろ」 「馬鹿抜かすな、てめぇはどうすんだよ!」 「ワシ一人なら何とかなるわい。ガキに心配されるほど落ちぶれておらん!」 「ち、強がりやがって!」 自分でも無茶だとはわかっている。 しかし、他に取るべき方法がないのもまた事実なのだ。 「セレナイトまで行け! そこに“ミーラシチ”という名の教会がある。 ワシの名を出せば、悪いようにはせんはずじゃ!」 なおも躊躇するシローを焚き付けるように、ヴィクトールが叫ぶ。 「おぬしも男なら、子供一人くらい護りぬいてみせい!」 その言葉に、彼もとうとう腹を決めたようだ。 「ち……! 死ぬなよジジィ!!」 叫んだ後、少女を抱え上げて走り出す。 彼らが入り口から脱出したのを見届けると、ヴィクトールは一人微笑した。 ――ここまでか。人生の幕引きとしては、上等な方かもしれん。 もはや、炎と煙はすぐそこまで迫っていた。屋敷の崩壊に巻き込まれれば、いかに自分とて生きてはいられないだろう。 「頼んだぞ、シローよ……そして、死ぬな」 託すものは既に託した。あとは、天の迎えがくるのを座して待てばいい。 ゆっくりと目を閉じ、ヴィクトールは亡き妻の姿を瞼の内側へ描く。 その数分後、屋敷は完全に炎に呑みこまれていった。 |
5.託された命 |
「ジジィ……!」 屋敷が完全に焼け落ちたのを見て、シローが呆然と呟く。 ヴィクトールの死という事実が、重く彼に圧し掛かってきていた。 初めて出会った冒険者、歴戦の戦士――憎まれ口を叩きながらも、心の底では尊敬もしていた。 その男が、こうもあっけなく死ぬものなのか。 「……畜生」 拳を握り締め、苦々しく呪いの言葉を吐く。 視界には、自分が連れ出した少女の姿。彼女もまた、黒い煙を上げる屋敷を虚ろな瞳で見つめている。 その様子を見て、シローは自らの使命を思い出した。 ヴィクトールから託された命――何としても、守らなくてはならない。 「そろそろ行くぞ」 力無く座り込んだままの少女の腕を取り、出発を促す。 だが、彼女は全く動こうとしない。か細い腕からは、微かに抵抗の意思が感じ取れた。 「……ータ」 消え入るような呟き。 覗きこんだ少女の瞳は、何も映そうとはしていなかった。 このまま、自分の存在すら消し去ってしまいそうにすら思える。 「しっかりしろよ、おい!」 シローは少女の肩を両手で掴み、強く揺すった。 されるがまま前後に身体を揺らし、ぽつりと呟く少女。 「……たい。いっそ……死なせて……」 「――!!」 その瞬間、シローは平手で少女の頬を打っていた。 脳裏に浮かぶのは、ヴィクトールの最期の姿。 ――こんなことのために、ジジィは死んだわけじゃない。 憤りが、そのまま口をついて出る。 「――勝手なこと抜かすな! いいか、お前を助けたのはジジィだ。そして死んだんだ。 命をどうこうする権利なんて、お前にはねえんだよ!」 シローが全てを吐き出した後、少女の顔に初めて表情らしきものが浮かんだ。 それは絶望なのか、悲哀か、恐怖か――判別はつかない。 しかし、それは彼女が初めて見せた“生きた”表情であることは確かだった。 「俺はお前をセレナイトに連れて行く。 暴れようが、泣き叫ぼうが連れて行く。わかったか」 少女はシローの迫力に圧されたのか、しばらく無言のまま彼を見つめていたが、やがて、ゆっくりと頷いた。 「じゃあ、とっとと行くぜ」 シローは少女に手を差し伸べて彼女を立たせると、そのままその手を引いて歩き出す。 少女は最初躊躇った様子を見せたが、やがて彼の手をしっかりと握り返した。 細い指先から、微かに震えが伝わる。 振り返ると、少女の両の瞳から大きな涙が零れ落ちていた。 慌てて目を逸らし、再び前を向いて歩くシロー。 思わず、呟きが漏れた。 「だからガキは面倒だってんだ……」 泣き続ける少女の手を引いてどれだけ歩いただろうか? 日も暮れかけた頃、前方に四つの騎影が姿を現した。 目を凝らすと、その手には剣がしっかりと握られている。 盗賊の類だろうか。急いで周囲を見渡したが、身を隠せそうな場所などは見当たらない。 「――ちっ」 真っ直ぐこちらへ向かってくる騎影に舌打ちし、シローは震える手で腰の剣を掴んだ。 ――守るのは、自分しかいないのだ。 |
6.覚悟と閃き |
近付いて来たのは、やはり盗賊であるらしい。 馬上から剣をちらつかせつつ、彼らはシローと少女に視線を向けてきた。 「何かと思えば、まだガキじゃねえか」 「見ろよ。一丁前に剣なんて持ってやがる」 「金目のものは――あるわけねぇよなあ?」 ニヤついた笑みを浮べながら、口々に盗賊たちが言う。 「どうする、頭?」 そのうちの一人が、やや後方で馬を進める男に声をかけた。 どうやら、彼が盗賊達の首領であるらしい。 「ふん……」 二人を値踏みするように見下ろし、首領が口を開く。 「そうだな、娘の方は連れて行くとしようぜ。 薄汚れちゃあいるが、ちょっと磨けば高く売れるかもしれねえ。 ――ガキは用無しだ、ここで殺っちまおう」 どうやら、判決は下されたようだ。 ――くそが、お決まりな台詞吐きやがって。 内心で毒づきつつ、シローは剣を抜いて構えを取った。 少女の前に立ち、接近する盗賊たちとの距離を測る。 「どうやら俺達とやり合うつもりらしいぜ、このガキ」 「やめとけよ。下手に抵抗すると痛えぞぉ」 男たちがせせら笑う声が、耳障りに幾重にも響いた。 ――うるせぇ、黙りやがれ。 そう叫びたかったが、声が出ない。 冷汗が背中を伝っていくのが、はっきりと感じ取れる。 シローはこれが初めての実戦、相手は荒事に慣れた盗賊、戦力差は四対一。おまけに、全員が馬上の敵ときている。 どう考えても、勝ち目など無かった。 どんなに自らを叱咤しようと、全身の震えは一向に止まらない。 初めて感じる死の恐怖が、ひたひたと忍び寄ってくる。 死ねば、全てが終わるのだ。 真っ暗な闇に呑み込まれ、自分という存在は消えて無くなる――それが、怖い。 耐え難い恐ろしさに襲われる一方で、シローのもう一つの意識は少女を逃がすことだけを必死に考えていた。 ヴィクトールから託された想い。それが恐怖心から切り離され、妙に意識を鮮明にしていく。 ――そうか。覚悟ってのは、こういうことか。 その時、盗賊の一人が真っ直ぐ馬を走らせて向かってきた。 相変わらずニヤついた笑みを浮かべている男に向かって、シローが吼える。 「――人をナメるのも大概にしやがれ、死ねぇ!」 馬上から繰り出された一撃をかわし、彼は馬の横っ腹を強く蹴り上げた。 悲痛な嘶きが響き渡り、激しく身を震わせた馬が騎乗していた盗賊を振り落とす。 そこで、シローは大きく息を吐いた。 何も、剣でやり合う必要などない。要は、敵を無力化できればそれで良いのだ。 そういう意味では、戦いも喧嘩も変わりはしない。結局は、最後まで立っていたものが勝つ。 ――しかし、彼の善戦は他の三人に火をつけてしまったようだった。 「このガキっ!」 怒号とともに、一斉に三騎がシローを取り囲むように動く。 矢継ぎ早に繰り出される多段攻撃。かわしきれず、シローはとうとう左腕を斬りつけられた。 思わず足を止めてしまったところに、容赦なく止めの一撃が振り下ろされる。 ――ここで終わりかよ、畜生。 諦めかけたその瞬間、三発の銃声が轟いた。 足元の炸裂音に驚き、次々に立ち上がる馬たち。 盗賊たちは振り落とされないよう、馬を落ち着かせるのに必死になっている。 砂埃が舞う中、シローは驚いて銃弾の飛んできた方向を見た。 「ここは私の帰り道なのさ。 わかったらさっさとおどきよ、邪魔だからさ」 やや離れた場所、そこに一人の美女が立っていた。 艶やかな長い黒髪に豊満な肉体。白い肌も露わな服装は冒険者のそれとはとても思えない。 体勢を立て直し、女に下卑た言葉を浴びせる盗賊たち。 しかしそれは銃声に掻き消され、最後まで口にされることはなかった。 「ものわかりの悪い男は嫌いだねぇ」 その言葉とともに、盗賊の一人が馬上から滑り落ちる。 わずかな沈黙の後、残りの盗賊たちは揃って逃走を始めた。 今の銃撃を見る限りは只者ではないのだろう。 女は硝煙立ち昇る銃に気だるげに息を吹きかけると、結わえた髪を重そうに揺らして歩き出した。 自らの行く手の阻むもの以外には興味がないのか、シローたちの方を見ようともしない。 「おい、あんた……」 シローは女の背中に声をかけたが、彼女はとうとう振り返らなかった。 女の姿が見えなくなった頃、シローはようやく自分の役目を思い出した。 緊張の糸が切れたためか、今頃になって斬られた傷が痛み出す。 利き腕でなかったのは、不幸中の幸いと言うべきか。 無造作に傷の止血を行い、少女とともに残された馬にまたがる。 あの女が何者だろうと、関係はない。 命を拾ったのならば、自分のすべきことをやるまでだった。 |
7.ヴィクトールが遺したもの |
旅すること数日。二人は、ようやくセレナイトへと到着した。 殆ど休むことなく来たために疲労は溜まっていたが、まだ動けないほどではない。 幸い、あの後は盗賊の襲撃などもなく、行程は至って平和なものだった。 左腕の傷はまだ痛みが激しいが、それに構っている場合ではない。一刻も早く、少女を送り届ける必要があった。 当の少女は、相変わらず黙ったままシローの後に付いて来ている。 心なしか、その足取りが当初より力強く思えるのは気のせいだろうか? 少しでも、生きる意思を取り戻しつつあるならば良いのだが。 そんなことを考えているうち、眼前に小さな教会が見えてきた。 「“ミーラシチ教会”――ここか」 どうやら、目的地へと辿り着いたらしい。 少女の手を引き、教会の扉を軽く叩く。 「はい、どちら様でしょう?」 二人を出迎えたのは、穏やかな微笑を浮かべた中年の女性だった。 おそらくはここの司祭なのだろう、ゆったりとした法衣を身に纏っている。 彼女は血と砂に汚れたシローと少女の姿を認めると、驚いた表情で口を開いた。 「どうされたのです? こんなに酷い怪我をして……」 それには答えず、シローはまず用件を切り出す。 「ジジィ――いや、ヴィクトール・ハインガットの使いだ。 この子供を、ここで預かって欲しい」 ヴィクトールの名前を口にした途端、女司祭の顔に懐かしげな表情が広がった。 「まあ……あの方の……」 にっこりと笑い、彼女は二人に中に入るよう促す。 「まずは、怪我の手当てをしなくてはなりませんね。 お話はその後で、ゆっくり伺うことにしましょう」 扉が大きく開かれた時、その奥から一人の老婆が姿を現した。 「どうかしたのかい、アンフィーサ?」 声をかける老婆に、アンフィーサと呼ばれた女司祭が微笑んで答える。 「この通り、お客様がいらしたもので。 何でも、ヴィクトール様のお使いで来られたそうですよ」 「ヴィクトールの……?」 老婆はシローと少女を眺めた後、人好きのする笑みを向けた。 「初めましてじゃの、坊や。 ワシはセシリア……ヴィクトールとは昔からの顔馴染みじゃ。 よかったら、この婆にも話を聞かせてもらえるかの?」 『癒しの祝福よ、彼の者の頭上へ』 一遍の聖句とともに放たれた光が、シローの傷を癒してゆく。 アンフィーサという女司祭の、治癒の神聖魔法の力だ。 「これで、痛みの方はじきに楽になるはずですよ。 手当てが遅れてしまったので、傷が残ってしまうとは思いますが……」 「それぐらい構わねえよ」 申し訳なさそうなアンフィーサに、ぶっきらぼうに答える。 こうやって生きているのだ。傷が残るくらい、どうってことはない。 「それで、ヴィクトール様の話というのは……?」 左腕の痛みが薄らいできた頃、傍らに立っていた中年の男性が、シローの正面に腰を下ろしつつ声をかけた。 こちらも法衣を纏っており、司祭であることが窺える。たぶん、アンフィーサの夫だろう。 この部屋には、シローと司祭夫婦、そしてセシリアと名乗った老婆の四人が、それぞれ向かい合って座っていた。 あの少女の姿は、今はここにない。張り詰めていたものが一気に切れたのか、力尽きて倒れてしまったのだ。今は、奥の部屋で休ませてもらっている。 これから話す内容を考えれば、むしろこの場にいないのは好都合であるかもしれない。 そんな事を思いつつ、シローは自分が知る限りの事情を説明していった。 マンシュタインのこと、少女のこと――そして。 「ジジィ――いや、ヴィクトールは……怪我で来れなかった。 俺は、その代わりに来たんだ」 この夫婦と、そしてセシリアがヴィクトールとどういう関係であるのかは知らない。 ただ、何故かシローはヴィクトールが死んだと告げることができなかった。 彼自身、心のどこかでそれを信じたくなかったのかもしれない。 「ご苦労だったの」 一通り話を聞き終えた後、セシリアが微笑してシローを見た。 その瞳が自分の嘘すら見透かしているような気がして、無意識に左の方へと視線を逸らしてしまう。 「あの子のことも、そのマンシュタインとかいう領主のことも、よくわかったよ。 あとは、この婆に任せておくんじゃ。悪いようにはしないからの」 飄々とした口調の中にも、どこか鋭いものを湛えたセシリアの言葉。 妙に隙のない身ごなしといい、この老婆は只者ではなさそうだ。 軽く警戒心を強めるシローをよそに、優しげなアンフィーサの声が後に続いた。 「ええ。あの子は、私たちが責任をもって引き取りましょう。 他ならぬ、ヴィクトール様の頼みでもありますし…… きっと、これも神の思し召しなのでしょう」 その言葉を聞き、シローの胸中に複雑な想いが湧き上がる。 この夫妻といい、セシリアといい――今更ながら、ヴィクトールという男の器の大きさを実感する。 そして、その死が意味するものの重さも。 「とにかく、君も今日はゆっくり休むといい。傷は癒えても、疲れただろう?」 自分を気遣う司祭に、シローは首を大きく横に振った。 「いや、俺はそろそろ邪魔させてもらう。行かなきゃならない場所があるんだ」 「今すぐ行くつもりですか? それは……」 アンフィーサが心配そうに声をかけたが、隣の司祭がそれをやんわりと止める。 「君にとって、それは大切なことなんだろう?」 彼に大きく頷きを返し、シローは席を立った。 部屋の扉へと向かったところで足を止め、一度姿勢を正して振り返る。 「あいつの事を頼みます」 軽く頭を下げ、再び踵を返すシロー。その背中ごしに、セシリアの声が響いた。 「胸を張るんじゃ。おぬしは、自分の力でやり遂げたんだからの。 これからも、しっかりやるんじゃぞ」 シローは、そのまま教会を後にした。 馬に再びまたがり、焼け落ちたあの屋敷へと向かう。 最後まで自分の名を告げることはなく、少女の名を知ることもなかった。 たぶん、これで良かったのだ。ヴィクトールの代理人に過ぎない自分の名前など、何の意味も持たないのだから。 やがて、シローは屋敷の焼け跡へと戻っていった。無論、ヴィクトールを見つけるためだ。 彼はそこで長い間探し回ったが、その姿はおろか、手がかり一つ発見はできなかった。 |
8.目覚めた場所は |
瞼越しに、明るい光が溢れていた。 暖かく、柔らかなものが自分を包んでいる――ここが神のおわす天国というものなのだろうかと、ヴィクトールは思った。 もしかすると、最愛の妻がすぐ傍まで迎えに来ているのかもしれない。 そんな夢想をしながら目を開いた彼は、そこに広がる情景に驚きを禁じえなかった。 「……?」 そこは、民家の一室であった。 窓から太陽の光が差し込み、室内を明るく照らしている。 ヴィクトールは、そこのベッドへと寝かされていた。 想像とあまりに異なった光景に、思わず苦笑が漏れる――どうやら、自分は死に損なったらしい。 身体を起こそうとした瞬間、全身に激痛が走った。 自身の体重を支えきれず、再びベッドに倒れこむ。状況を考えれば当然だが、ダメージはかなり大きいようだ。 だがしかし、どうやって助かったのだろう? そんな時、扉から一人の青年が姿を現した。 すらりとした長身。長い黒髪を、首の後ろで一つに束ねている。 歳の頃はせいぜい二十歳といったところだろうが、その瞳は、それにそぐわない落ち着きと知性を兼ね備えていた。 「気がつかれたようですね。――とりあえずは、これで一安心ですか」 「おぬしが、ワシを助けてくれたのかのう?」 ヴィクトールの問いに、青年は首を僅かに傾ける。 「それが『傷の治療をする』という定義ならば、そういうことになりますか。 私はマナ・ミモロと申します。 齧った程度ではありますが、一応は医術の心得がありましてね」 マナと名乗った青年の口調はやけに理屈っぽく、感情の色に乏しい。 根が直情的で、判断の大部分を直感に頼っているヴィクトールにとっては、やや苦手なタイプともいえる。 内心で苦笑するヴィクトールをよそに、当のマナは淡々と話し続けていた。 「あなたはこの村の近くで倒れていたそうですよ。 一体どこで何があったのかは知りませんが――全身に大火傷を負いながら ここまで這って来るなんて、実に驚嘆すべき生命力と精神力です」 それを聞き、ヴィクトールは驚きとともに絶句する。 ――何てことだ。では、自らの力でここに辿り着いたというのか。 あそこまで覚悟を決めておきながら、それでも無意識のうちに脱出していたとは。 思っていたよりも、自分は随分と往生際が悪いらしい。もうしばらく、妻に会う事はできないだろう。 ヴィクトールが呆然としているうちに、マナが診察を開始していた。 傷の状態を一つ一つ丁寧に検分しながら、慣れた手つきで包帯の交換を行う。 「本来ならば、しばらくは立ち上がることもできないほどの重傷なのですが。 あなたならば、回復にそう時間はかからないでしょう。 もっとも――あくまでも日常生活においては、ですけれど」 マナの意図をすぐに理解し、それを口にする。 「戦いには、耐えられんということか」 「おそらくは」 躊躇わずに肯定する青年の言葉は、むしろ清々しくさえ感じられた。 落胆を通り越して諦めの境地へと達しつつあるヴィクトールに、マナが比較的軽い口調で付け加える。 「まあ、ヤブ医者の言う事ですから当てにはなりませんがね。 何しろ、あまり真剣に勉強はしてなかったもので」 彼なりの、気休めのつもりなのだろうか。 肩を竦めるマナの様子からは、それが冗談なのか本気なのかは判断することができない。 どちらにしても、しばらくは治療に専念するしかなさそうなのは確かだ。 ベッドに縛られる退屈を重い、無意識に溜息を漏らすヴィクトール。 そこに、マナが再び口を開いた。 「ここの村人たちは、あなたが動けるようになるまで この家を無償で提供するつもりのようです。 私も旅の途中なもので、最後まで面倒を見られるかどうかは わかりませんが――出来る限り、力は尽くすつもりですよ」 ちょっと頭でっかちで面白みには欠けるが、悪い奴ではなさそうだ。ヴィクトールは、この若い治療者を信用することにした。 「手間をかけるのう……スマンな」 「お気になさらず。――では、また来ます」 マナが扉の向こうへと消えると、ヴィクトールはベッドの上から窓の外を見た。 表から、子供たちが楽しそうに遊ぶ声が聞こえてくる。 そういえば、あの二人は無事に辿りついただろうか? 盗賊の残党などに出会っていなければ良いのだが。 それを思うと、いてもたってもいられない。身体が言うことをきかないことが、無性に悔やまれる。 しかし――どちらにしても、シロー達の安否を確かめる手段は今のヴィクトールには無かった。 |
エピローグ |
それから数ヶ月の後、ヴィクトールは半年ぶりに故郷の土を踏んだ。 マナが言った通り、剣を握ることはかなわないが、一人で歩けるまでに回復はしている。 運良く、親切な商人の馬車に便乗することができ、ここまで帰って来ることができたのだ。 ヴィクトールは家族に暖かく迎えられ、そして時は穏やかに過ぎていった。 おそらくは、もう冒険に出ることもないだろう。 そんなある日、彼のもとに一通の手紙が届いた。 差出人の名はアンフィーサ・クナーゼ。 セレナイトに住む司祭であり、ヴィクトールの知人でもある女性だ。 手紙には、几帳面な字でこう書かれていた。 ――ヴィクトール・ハインガット様 ご無沙汰しております。その後、お怪我の具合はいかがでしょうか? 先日、あなた様の遣わした少年(迂闊にも、名前を聞くのを忘れておりました)が 命がけで連れて来たあの子は、今、私どもの子供として日々を過ごしています。 少年から大体の事情は聞いてはおりましたが、あの子の心に触れるにつれ、 今までどんなに酷い仕打ちを受けてきたのかを実感し、胸が痛みます。 想像以上に心身の傷は深く、それが癒えるまでには長い時間が必要でしょう。 我が家へ来た当初は、ろくに口もきけないような状態でしたが、 最近はやっと、笑顔らしきものも見せるようになりました。 あの子が失ったもの、与えられなかったものを一つずつ取り戻させてゆくのが、 神が私たち夫婦へ与えたもうた使命なのだと、そう考えております。 件のマンシュタインという地方領主は、セシリア様の働きかけにより失脚したそうです。 あの子にとっては、何の救いにもなりませんが……。 お身体が回復された暁には、是非ともこちらへお立ち寄りくださいませ。 親子三人、あなた様をお待ちしております。 手紙の最後に、司祭夫婦の名前と、子供の名前が並んで書き添えてあった。 ヴィクトールはそれを見て少し驚いた表情をしたが、やがてそれは微笑に変わった。 手紙をサイドテーブルの上に置き、窓から空を見上げる。 ヴィクトールは今、約束を交わした少女の顔を思い出していた。 結局、救えたのは一人だけ。誓いを果たせなかったことを悔やむ気持ちは、もちろんある。 自分に力がもう少しあれば、結果は変わったのかもしれない。 しかし――確かに自分はこの手に一つの生命を掴み取ったのだ。 もう自ら剣を握ることはないが、その思いは次の世代へと受け継がれていく筈である。 あるいは、それを成すのはシローやあの子なのかもしれない。 ややふらつく身体をベッドに預けながら、そんなことを思う。 まだ、本調子ではないようだ――少し、休もう。 穏やかに眠りへと誘われていく中、ヴィクトールは己が信じる神へと祈りを捧げていた。 どうか、あの子らの頭上に神の恩寵がありますように――と。 |
〔執筆者あとがき〕 |
本編における“八年前の因縁”を描いた外伝。 老戦士ヴィクトールと、当時十六歳の少年であったシローの二人を主役とし、その視点から綴っています。 ヴィクトールは本編では名前のみの登場ですが、彼の存在は多くの人物に影響を与えてきました。 シローやスラーヴァにとっても、その名は大きな意味を持ち続けているのです。 セシリアと並んで、ファンブラーズを影から支えてきた人物と言っても過言ではないでしょう。 ヴィクトールが現在に至るまでスラーヴァに会わなかったのは、ひとえに心の傷を掘り起こさないためでした。 セシリアらも彼の意図を汲み取り、現在に至るまでそれに従い続けていたのです。 その事が逆に「人の命を犠牲にして生き延びた」という負い目をスラーヴァに与えることになったわけですが……。 まったく、皮肉としか言いようがありません。 なお、今回はセシリアやヴィクトールの他、普段お世話になっているプレイヤーさんたちのキャラクターを何名か登場させていただきました。 最後になりましたが、自らのキャラクターを預け、ご協力くださったプレイヤーの方々には深くお礼を申し上げたいと思います。 |