“手探りで進む者たち” (The Fumblers) スラーヴァ少年期短編 「光あれ」 |
2004/03 |
「光あれ」 |
〔執筆者あとがき〕 |
「光あれ」 |
「まあ、セシリア様。ようこそいらっしゃいました」 扉が開かれると、アンフィーサがいつもの穏やかな微笑で立っていた。 「また来させてもらったよ。邪魔させてもらっていいかの」 そう言いつつ、セシリアはゆっくりと教会の中へと入っていく。 決して立派な造りではないが、手入れが行き届いているために殺風景な印象は全く無い。 暖かい雰囲気は、そのまま住人の人間性を表しているようだった。 「――それで、あの子は?」 廊下を歩きながら、セシリアがアンフィーサに問う。その直後、彼女の表情が少し翳った。 「相変わらずですわ。食事にもろくに手をつけず、弱っていく一方で……。 生きる意思を、全く失ってしまっているようなのです」 「……やはりの」 予想していたこととはいえ、それを聞くのは辛い。 セシリアも言葉を失い、二人の間には短い沈黙が流れた。 やがて、目的の部屋の前へと辿りつく。 「少しだけ席を外してくれるかの、アンフィーサ? あの子と二人だけで、話がしたいんじゃ」 「わかりました。私たちが無力なばかりに――申し訳ありません」 「なに、気にすることはないよ」 ぺこりと頭を下げ、アンフィーサが元来た道を戻る。 その背中を見送ると、セシリアは一つ深呼吸とともに扉をノックした。 「スラーヴァや、セシリアじゃ。――入るよ」 部屋の中からは返答は無い。 少し間をおくと、セシリアは扉をゆっくりと開いた。 小さな子供部屋。 その床に、ぺたんと腰を下ろして座る子供が一人。 入口に背を向け、黙って窓の方を見ている。 短い銀髪、同年代の子供とくらべると明らかに小柄で痩せた身体。 手足は力無く床へと投げ出されており、今にも倒れてしまいそうだ。 傍らのテーブルには食事が置かれていたが、手をつけた様子は全く無い。 「スラーヴァ」 もう一度、セシリアは子供の名を呼んだ。 正面へと回り、顔を覗きこむ。 紫紺の瞳が、虚ろにセシリアの姿を映していた。 もともと白い肌はすでに蒼白を通り越し、頬の肉がごっそり落ちている。 顔立ちが整っているだけに、その憔悴した様子が余計に痛々しい。 スラーヴァが、この教会に来たのはつい一週間前のことだ。 その前は、とある地方領主のもとで監禁され、随分と酷い仕打ちを受けていたと聞く。 セシリアの古い友人の手によって救い出され、彼の手の者がここへ連れて来たのだったが、その心身の傷はあまりに大きかった。 ろくに口もきかず、辛うじて自分の名前を言えただけ。 それでも、最初の二日間くらいは最低限の食事を口にしていたが、日に日に量は減り、とうとう食べ物を断ってしまった。 このままでは死んでしまうと、養い親たるアンフィーサとその夫は様々な手を打ったが、試みは全て無駄に終わったらしい。 「すっかり冷めてしまったのぅ」 食事の乗った盆を見て、セシリアが言う。 その言葉に、スラーヴァは黙ったまま下を向いた。 「新しいのを、持ってこようか?」 力無く、首を振るスラーヴァ。 セシリアは目線を合わせると、優しくこう問いかけた。 「スラーヴァや、もうここはお前の家なんだよ。 もう誰も、お前を苛める者はおらん。怖がることも、遠慮することもないんじゃ」 言葉を続けるうち、セシリアの心に静かな怒りが湧き上がってきた。 どうして、この子がこうまで苦しまなくてはならないのか? 現在、彼女はスラーヴァたちを虐げていた地方領主の悪事を暴くべく全力で動いている。 かつて怪盗として活躍し、現在もなお各地の裏社会へ人脈を持つセシリアには、それが可能だ。 でも、たとえそれが成し遂げられたとしても、この子の傷は癒えはしないだろう。 「……スヴェータ」 「何だって?」 スラーヴァがぽつりと漏らした呟きを聞き逃すことなく、セシリアが問い返す。 「――ぼくの妹。火事で、死んじゃった……」 例の地方領主は己の保身のため、自ら館へと火を放った。 監禁されていた子供達の多くが炎の犠牲となり、スラーヴァただ一人だけが、ヴィクトールにより辛うじて救出されたという。 その事情は、彼の代わりにスラーヴァを送り届けた少年より聞いていた。 「そうかい……」 「ここに来て……ぼくはご飯もベッドももらえて、嬉しかった。 でも――スヴェータは、まだあそこにいるから……」 「……」 焼け落ちた屋敷は、セシリアも一度目の当たりにしていた。 黒焦げとなった多くの子供達の遺体を思いだし、胸が詰まる。 セシリア達はその全てを丁重に葬ったのだったが、その中にスヴェータもいたのだろう。 妹を救えなかった後悔と、自分一人が生き残ったことへの罪悪感。 それこそが、スラーヴァを苦しめていたものの正体だったのだ。 ここで人の暖かさに触れるたび、死んだ妹の姿を脳裏に思い浮かべていたのかもしれない。 ――妹を残して、ひとりだけ幸せになんてなれない。だから、このまま生きていたくない。 スラーヴァの魂の叫びが、セシリアの心へと響いた。 この子は脆く、優しすぎるのだ。それゆえ、自分を死へと追い詰める。 何とかして、生きる強さを教えなければいけない。 それは、他ならぬヴィクトールの願いでもあっただろうから。 「スヴェータのことを、覚えているかの? スラーヴァや」 「……?」 怪訝そうな顔で、セシリアを見上げるスラーヴァ。 「ワシは、スヴェータがどんな子なのかわからないんじゃよ。 たぶん、この世でそれを一番知っているのはスラーヴァ、お前じゃろう。 そのお前がいなくなってしまったら、誰がスヴェータを思い出してやれるんじゃ? お前は誰のものでもない。お前の命は、お前のものじゃ。 でも、それはお前一人で抱えているわけじゃないんだよ」 スラーヴァは再び俯き、震える声で言った。 「お兄ちゃんにも叱られた。ぼくに、命をどうこうできる権利なんてないって」 “お兄ちゃん”とは、おそらくスラーヴァをここまで連れて来た少年のことだろう。 名前を聞くことはできなかったが、なかなか良い目をしていたのを覚えている。 若い頃のヴィクトールに少し似ていただろうか? セシリアの思いをよそに、スラーヴァの嘆きは続く。 「でも、わからない。どうして、いま生きているのか。 ここにいるのは、スヴェータでも良かったのに。 それに――あのお爺さんだって、ぼくの代わりに死ぬことなんてなかった!」 その言葉に、セシリアは強い衝撃を受けた。 ――ヴィクトールが死んだ? まさか。 彼という存在は、セシリアの人生を通しても特別だった。 結ばれることこそなかったが、今でも、その想いは強く息づいている。 そのヴィクトールの生命が失われたなどとは、考えたくもない。 セシリアは、スラーヴァに悟られないよう、すぐに動揺を押し殺した。 強引に、考えを良い方向へと誘導する。 ――そうだ。あの焼け跡にもそれらしき遺体はなかったではないか。 あの男が、そう簡単に死ぬはずがない。きっと、どこかで生きている。 しかし、もし奇跡が起こっていたとしても。 それを確かめようがない以上、スラーヴァにとってヴィクトールの死は疑いようのない事実であり、そして大きな十字架だった。 他者の命と引き換えに自分の生があることを、一生背負っていかなくてはならない。 最悪の場合は、生きることそのものを罪悪と考えてしまうようになってしまう可能性すらある。 そうは、させたくない。 静かな決意とともに、セシリアは優しく彼をその胸に抱く。 「誰の命も、みんな等しく尊いんだよ。そんな悲しいことを言わないでおくれ」 腕の中で、怯えたように身体を強張らせるスラーヴァ。 それが、今まで彼にまっとうな愛が与えられなかったという哀しい証明だった。 微かな抵抗に構わず、セシリアはスラーヴァの目を見て言う。 「ヴィクトール・ハインガット。覚えておいで、あんたを助けた爺さんの名前だよ。 考え無しで、無鉄砲で、正義感が強くて……どこまでも、優しい男じゃった。 そのヴィクトールが、今のあんたを見たら何と言うかのぅ。スラーヴァや」 「……」 「この婆にはわかるよ……きっと、こう言うじゃろう。 『お前はたくさんの命を背負って生きているんじゃ。 だからこそ、幸せにならないといかん。失ったもののためにも』 あやつの事じゃ、もしかすると口より先に手が出ておるかもしれんがのぅ」 スラーヴァの目が大きく見開かれ、徐々に瞳が潤んできている。 生と死の狭間で揺れ動き、必死に戦っているのだろう。 「お前がもし、スヴェータやヴィクトールの命に酬いたいと思うのなら。 まずは精一杯生きるんじゃ。そして――幸せにおなり」 ――例えお前自身が許さなくても、この婆はそれを許そう。 精一杯の願いを込めて、セシリアはスラーヴァを抱きしめた。 やがて、腕の中から嗚咽が漏れる。 声は徐々に大きくなり、とうとうスラーヴァは声を上げて泣き始めた。 その頭を撫で、ゆっくりと天を仰ぐセシリア。 そして、彼女は滅多に信じない神に祈りを捧げた。 いくらでも泣けばいい。涙が悲しみを洗い流して、いつか笑える日のために。 その時が訪れるまで――どうかこの子に光あれ。 |
〔執筆者あとがき〕 |
外伝『この手に掴んだ生命』の直後にあたるエピソード。 絶望の淵で喘ぐスラーヴァと、そんな彼を必死で励ますセシリアの物語です。 この日を境に、スラーヴァは徐々に生きる力を取り戻していきましたが、ただ一つ「他者の犠牲の上に自分の生がある」という思いだけは捨てることはできませんでした。 彼自身はそういった素振りを見せないように努めていたので、さすがのセシリアも気付くことができなかったのでしょう。 もしスラーヴァがそれを打ち明けていたら、また違っていたのかもしれませんが……。 時には、互いへの思いやりが哀しいすれ違いを生むこともあるのです。 |