“手探りで進む者たち”
(The Fumblers)
一時解散編1
指輪
2004/10


指輪
〔執筆者あとがき〕


指輪

それは、まさに青天の霹靂だった。

ある夏の日、シローは珍しく約束の時間通りにリンファンの家を訪れた。
窓からは夏の眩しい日差しが降り注ぎ、部屋はかなり明るい。にも関わらず、シローを迎えたリンファンの表情はどことなく影が差しているようにも思える。よく見ると、顔色もあまり良くないようだ。
彼女はシローに椅子を勧めると、黙って茶の準備を始めた。
――どこか身体の調子でも悪いのだろうか。
訝るシローをよそに、リンファンがティーセットと茶菓子をトレイに乗せて戻ってくる。
カップに茶を注いでシローに手渡し、彼女はそこで初めて口を開いた。

「――子供ができたの」

その言葉に、一瞬にして思考が止まる。一言一句を反芻してようやく意味を飲み込んだ後、頭の中では反射的に記憶を辿っていた。
心当たりは――確かに、ある。
「……そうか」
たった一言、そうとしか言えなかった。我ながら、間の抜けた返答だと思う。
シローは出された茶を一息に飲み干すと、そのままティーポットに手を伸ばした。
自分のカップに二杯目を注ぎながら、できる限りさりげなく声をかける。
「まあ、気をしっかり持て」
「……その言葉、あなたにそっくりそのままお返しするわ」
――動揺を悟られてはいけない。
呆れたような口調の恋人と目を合わさぬように気を配りつつ、ことさらに明るく答える。
「俺は冷静だよ、うん」
「……お茶、溢れてるけど」
手元に目をやると、カップからは茶が豪快に溢れ出していた。
「――おおうっ!?」
慌てて卓上にあった布巾を手に取り、テーブルを拭き始める。
黙って作業を進めるうち、二人の間には会話がぷっつり途切れてしまった。
こんな時に限って、飼い猫のトラも姿が見当たらない。気まずい沈黙が流れる中、リンファンが申し訳なさそうに下を向く。
「……ごめんなさい」
「お前が謝ることじゃないだろ」
「でも」
彼女が何に対して謝っているのかはわかる。こればかりは、自分たちだけの問題では済まないからだ。周囲に与える影響は、思ったよりも大きいものとなるだろう。
しかし、それはリンファンが一人で背負うべき問題ではない。原因の一端は、確実にシローが担っているのだから。
なおも何か言いたげなリンファンを手でやんわり制し、シローはゆっくりと口を開く。
「いつかは、こういう日が来たんだ」
それは、まるで自分に言い聞かせるが如く響いた。

――そう、ずっと前からわかっていたはずだ。遅かれ早かれ、決断を迫られる時が必ず来るということは。
こんな形で迎えることになろうとは、流石に予想の範囲外だったが……。
とにかく、こうなった以上は己の責任を果たさねばならない。
しかし、情けないことに頭の中は真っ白で、具体的なことは何一つ考えることができなかった。
堪らず、とうとう席を立つ。
「あー……駄目だ。ちょっと、外に出てくる……」
シローはそう告げると、無言で俯いたままのリンファンを残し家を後にした。


数刻後、シローはぼんやりと考え事をしながらフロースパーの街を歩いていた。
時間を置いたおかげで少し落ち着いてきたが、その分余計に事の重大さが圧し掛かる。
いきなり父親になると言われて、すぐに実感が湧くはずもない。しかし、生半可な態度を取り続けるわけにはいかなかった。
溜息とともに、ふと、これまでの旅路を振り返る。
戦士となって十年、リンファンと出会って七年、仲間とパーティを組んで三年――その間、あらゆる場所へと赴き、多くの者たちと知り合った。友として、あるいは敵として。
見慣れた顔もまた、少しずつ変化している。小柄な少年だったヴィヴィオも、何時の間にか随分と背が伸び、今ではシローよりやや低いという程度だ。元々長身だったローラには既に追い抜かれていることといい、多少の危機感を覚えたりもする。

――ともかく、それだけの時が過ぎたということだ。
旅を終えるにはまだ中途半端という思いもあるが、これはまあ仕方が無い。いつまで経っても、本当に納得がいくだけの“終わり”など訪れないことはわかっていた。
“終わり”ではなく“区切り”――リンファンの懐妊は、そういう意味では良いきっかけだろう。曖昧にお茶を濁していたことへの、ツケが回ってきただけとも言うが。
いよいよ、覚悟を決めなくてはならない。
半ば無意識に、腰にあるベルトポーチを軽く撫でる。その中に収められたものの確かな感触が、シローに一切の逃避を許さなかった。
それにしても、短い時間なりに考え抜いた結果がこれとは。その発想の陳腐さが、我ながら腹立たしく口惜しい。
「――結局、形から入るしかないのか……」
天を仰ぎつつ、誰にともなく呟いた、その時。

鋭い殺気を湛えて、一陣の風が吹いた。
飛来した刃が、咄嗟に体を捻ったシローの右上腕を掠め、背後の木壁へと突き刺さる。
投擲用にあつらえた小型の短剣らしく、傷の程度はそれほどでもない。
しかし、考え事をしていたとはいえ、この程度の攻撃をかわしきれなかった事実が苛立たしかった。
忸怩たる思いで、周囲に視線を巡らせる。夕刻の裏通りに、人影はまったくない――襲撃者、ただ一人を除いて。
身構えるシローを前に、その人物は目深に被ったフードの下から押し殺したような声を漏らした。
「やっと見つけた。シロー・オサフネ」
「……名指しかよ」
自分を呼ぶ声が若い女のものだったことで、微かに眉を顰める。
人の恨みを買う心当たりなどいくらでもあるが、それが痴情のもつれとなると話は違ってくる。
ざっと記憶を辿っても、短剣を投げつけられるような狼藉を働いた覚えはない。シローは、瞬時にその可能性を否定した。
――まあいい。何にせよ、降りかかる火の粉は払うまでだ。
空手のまま構え、戦闘態勢を取る。シローほどの達人ともなれば、その肉体そのものが研ぎ澄まされた武器だ。相手が誰であれ、そうそう遅れをとりはしない。
威嚇も兼ねて女を睥睨すると、彼女は何を思ったか、自らの頭部を覆っていたフードを脱ぎ捨てた。
ふわりと、柔らかい金髪が肩まで落ち、下に現れた褐色の肌を縁取る。
歳のころは二十歳前後だろうか。血の色を映したような真紅の瞳が、溢れんばかりの憎悪を込めてシローへと向けられていた。
「あたしの顔なんて、覚えていないわよね」
言葉とは裏腹に、女の容姿はシローの記憶を確実に掘りおこしていく。
その面影、金髪と真紅の瞳、褐色の肌――そして、胸に迫るほどの激しい殺気。
思わず、呻きにも似た声が漏れた。
「……あの時の、ガキか」
「そうよ。思い出した? あたしの兄は、あんたに殺されたのよ」
女の声に、当時の光景が鮮明に蘇る。

――それは、五年前のこと。
ベイロンという悪徳商人の護衛を請け負った際、刺客としてやって来たのが、彼女とその兄だった。
両親を殺された仇を討とうと、幼い兄妹は街道でベイロンを待ち伏せ、襲撃へと及んだのだ。
しかし、彼らはろくに剣を握ったこともない子供に過ぎなかった。既に戦士として鍛え上げていたシローに敵うはずもなく、兄は返り討ちとなって絶命し、妹だけが残された。
冷静に実力差を考えれば、殺さずに退けることは充分可能であったことは間違いない。シローがそれをしなかったのは、ひとえに自らの衝動を解き放った結果だった。
二十一歳。自由への渇望からリンファンの元を離れ、後にそれが過ちであったことに気付き、手放してしまった、決して取り戻せない幸せを思って、ひたすらに絶望していた自分。
考えたくなかったのだ。ただ剣を握り、体の動くまま戦い、壊してしまいたかった。
血と殺戮に酔うことで、全てを忘れたかった。
そんな甘えた逃避の末、シローは一人の少年の命を奪ったのだ。――たった、それだけの理由で……。

――人殺し! 必ず、殺してやるからぁっ!!

両親を失い、兄をも殺された少女。その慟哭に混じった悲鳴は、そのままシローの背負う十字架となった。この五年あまり、決して忘れはしなかったし、忘れられるはずもなかった。
“人殺し”の罪が消えることなど、一生ないのだから。

あまりにも苦い思いを胸に、眼前の女を見る。歳月は少女を女へと変えたが、その瞳に宿る憎しみの炎はいささかも衰えることはない。むしろ、時を経て勢いを増したようにも思える。
「――兄の仇、討たせてもらう」
激情を薄皮一枚で押し止めるが如く、危うさを秘めた声が女の口から冷然と響く。
手には、細身の剣を構えていた。周囲に溶け込むほど薄く作られた刀身は、その用途が暗殺であることを窺わせる。シローを殺す、そのために彼女は暗殺者へと身を落としたのだ。
だからといって、大人しく殺されてやるわけにはいかないが。
「やれるもんなら……」
――やってみろ、と言おうとして、膝が砕けた。
身体を支えるために壁に手をつこうとしたが、指先だけが力なく表面を滑っていく。
気が付けば、右腕は痺れて感覚を失い、徐々にそれが全身に及ぼうとしていた。腰が落ち、地面に片膝をつく姿勢になる。
――毒か。
おそらくは、先程の短剣に塗られていたのだろう。武器の威力が足りなくとも、かすり傷一つで相手の動きを封じられるというわけだ。
暗殺者ならば、標的を確実に仕留めるために毒を用いるのは不思議なことではない。
改めて、己の失態に内心で舌打ちする。

幸いと言うべきか、毒はそれ自体で命を奪う類のものではないようだ。全身が麻痺しかけてはいたが、苦痛は比較的少なかった。
「準備は万端ってか……ご苦労なこった」
軽口を叩きつつ、活路を見出そうとする。
その挑発に乗ったかのように、女は手にした刃を閃かせた。
憎悪を乗せて、シローの右上腕、短剣が掠った傷口を容赦なく抉る。
流れ出す血と同じ色をした瞳が、復讐の熱を帯びて爛々と輝いていた。
「――そうよ。あたしには、もう復讐しか残されていないもの。
 そのためなら、手間は惜しまない。楽に死ねるとは、思わないで」
どうやら、一思いに殺す気はないらしい。
それだけ恨まれていることの証明だが、考えようによっては好都合だ。
時間をかければかけるほど、そこに付け入る隙が生まれる可能性が出てくる。
しかし、次いでシローの口を突いて出たのは、そんな打算とはまったく無縁の疑問であった。

「あの商人を殺ったのもお前か?」
もう一年くらい前の話になるが、シローはベイロンが死んだことを風の噂に聞いていた。
話によると、何者かの襲撃を受けて殺されたらしい。
冷酷無比で人情の欠片もない男であったから、それ自体は不自然なことではない。しかし、一体誰がそれを成しえたのか、今になって無性に気になリだしたのだ。
シローの問いに、女は剣を傷口に潜り込ませたまま首を振る。
「残念だけど違う。あの男は大勢に憎まれていたから――
 できれば、この手で殺してやりたかったのだけれど」
忌々しげに言い放つその言葉を聞き、ある種の安堵が胸中に浮かぶ。それが身勝手な自己満足であり、何の救いにもならないことは充分承知していたが。
「――なら、俺が第一号だな」
「そういうことね」
シローが皮肉げに口元を歪めると、女は麻痺して痛みすら感じない右腕から剣を抜き、今度は首元へその切っ先を突きつけてきた。
そのまま軽く刃を滑らせ、皮膚を薄く傷つける。もう少し力を込めれば、頚動脈へと届くだろう。

――さて、どうする……?

絶対絶命ともいえる状況の中、生き残るための算段を巡らせる。
利き腕は封じられ、残る四肢も言う事をきかないが、目の前の相手であれば倒すことは充分可能だ。単純に暗殺者としての実力を考えれば、女の腕前はせいぜい二流に過ぎない。
問題はただ一つ。手加減がまったくきかないということだ。普段ならばともかく、毒で痺れた身体にそんな余裕はない。ひとたび動けば、ほぼ確実に女は死ぬことになるだろう。
シローの脳裏に、五年前に殺した少年の断末魔の顔が浮かぶ。
――あの悪夢を、もう一度繰り返せというのか。
だが、どうしてもここで死ぬわけにはいかないのだ。
たとえ、再び血まみれの十字架を背負うことになったとしても。

殺める決意とともに、シローが仕掛ける機会を窺った、その時。
聞き慣れた声が、自分の名前を呼んだ。
「シロー!」
「――!?」
女が振り返り、シローが視線を向けた先に、リンファンが立っていた。
帰りが遅いのを心配して探しに来たのだろうが、何とタイミングの悪いことか。
彼女が駆け寄ってくるのを視界の端に認めて、思わず叫ぶ。
「ばか、来るな!」
これでは、みすみす相手につけいる隙を与えるようなものだ。
しまったと思うが、もう遅い。すかさず、リンファンの前に女が立ち塞がる。
「その通りよ。巻き込まれたくなければ、すぐに元来た道を戻りなさい。
 今なら、見なかったことにしてあげるわ」
刃をちらつかせて恫喝する声に、リンファンはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
「この男は人殺しよ。あたしの家族を奪った仇なの」
その糾弾を受けて、リンファンの整った眉が僅かに動く。
畳み掛けるように、女はさらに声の調子を上げた。
「命を懸けてまで守る価値なんて、ない男だわ」
血を吐くように、そう言い捨てる。
対するリンファンは、女から目を逸らすことなく、静かに口を開いた。
「あなたにしてみれば、殺しても飽き足らないでしょうね」
「そうよ。わかったらさっさと――」
苛立たしげに、立ち尽くしたままのリンファンに剣を向ける女。今はまだともかく、このまま放っておけば逆上して彼女に斬りかかることも充分考えられる。
「そいつの言う通りだ、お前は逃……」
シローは慌ててリンファンを促そうとしたが、それは当の本人によって遮られた。
「あなたは少し黙ってて」
有無を言わせぬ口ぶりに、状況も一瞬忘れて絶句する。
沈黙したシローを一瞥すると、リンファンは女へと真っ直ぐ向かい合った。
彼女は冒険者でもなければ、武術の心得があるわけでもない。たとえ二流とはいえ、暗殺者と戦えばたちまち殺されてしまうだろう。
いかに気丈とはいえ、武器を手にした相手を前にして恐怖を感じないわけがない。事実、リンファンの両の拳は固く握られたまま、小刻みに震えていた。顔色も、既に蒼白に近い。
それでも、リンファンは一向に引き下がろうとはしなかった。漆黒の瞳に強い意志を湛え、突きつけられた刃を見据える。
「自分勝手な言い分だってわかってる。でも、私はここを動くわけにいかないのよ」
「どうして、こんな男にそこまで……」
女の口から、疑問が苦々しい響きとともに漏れた。
それを聞き、リンファンが穏やかに微笑う――眼前には、まだ剣があるというのに。
信じられないといった様子で目を見開く女に、彼女は自らの下腹部を優しくさすりながら答えた。

「――生まれてくる子供には、父親が必要だからよ」

言葉の意味するところを、女はすぐに察したのだろう。
衝撃に揺さぶられるが如く、剣を握る手が大きく震えた。明らかに、動揺している。
「……!」
声にならない叫びとともに、ひたすらリンファンの下腹部を凝視する女。
まるで、この中で育まれつつある一つの生命を見るように。
「……何驚いてやがる」
ふらつく体を背後の壁に預けて、シローが何とか立ち上がる。
口の端を持ち上げ、彼はありったけの揶揄を込めて嗤笑した。
「“人殺し”にガキがいちゃあ悪いかよ。それとも……殺しづらくなったのか?」
辛辣な挑発に、振り向いた女の顔が憎悪に歪む。
「シロー……」
「甘えるんじゃねえ!」
リンファンの咎める声にも構わず、シローはさらに女を怒鳴りつけていた。
人の命を奪うということは、憎しみを喰らって生きることに他ならない。
その覚悟も無い者が、手を血に染めるなどあってはならないのだ。
八つ当たりで女の兄を殺した、この自分のように。
「どんな悪党だろうとな、独りとは限らねえんだよ。
 誰かを殺れば、他の誰かの恨みに繋がる――それが普通だ。
 お前が、俺のところに来たようにな……」
視界にリンファンの姿を映しながら、挑むように声を張り上げる。
「標的に家族がいた程度で挫けるくらいならな、暗殺者なんてやめちまえ!」

かつて、置き去りにしてしまった女。
自分が死んだら、悲しむであろう女。
誓ったのだ。もう、決して一人にはしないと。
罪に汚れた腕でも、彼女は求めてくれたのだから――何をしてでも、生き延びる。

決意を秘めた視線で、シローは暗殺者の女を真っ向から射抜いた。
気圧されたように、女が一歩下がる。
「人殺しが……偉そうに!」
彼女は剣でリンファンの胸に狙いを定めたが、その手は傍目にもわかるほどに大きく震えていた。
動揺を少しでも覆い隠そうとするかの如く、ヒステリックに叫び声を響かせる。
「わかってるの!? あんたが死んでも誰も悲しまないよう、
 ここで一緒に殺してやってもいいのよ!?」
「やってみやがれ」
「……な」
あまりにも無情な返答に、女は一瞬言葉を詰まらせてリンファンを見た。
しかし、彼女は沈黙を保ったまま動かない。その表情に、見殺しにされたという絶望の色はなかった。
「やめなさい。あなたには無理よ」
リンファンの口調は、命を狙われているとは思えないほどに落ち着いている。
むしろ、眼前の暗殺者の身を案じているようでもあった。
二の句が継げないでいる女に向け、シローが苛烈に声を放つ。
「お前が女を斬るなら、俺はその前にお前を殺す。
 もし、後で誰かがお前の仇を討ちに来ても、容赦なく殺す。
 終わるまで、その繰り返しだ。女にも、腹のガキにも指一本触れさせやしねえ」
「……!!」
女が、大きく息を呑むのが見えた。
瞳を逸らさず、言葉に力を込めていくシロー。
「俺はお前の兄貴を殺した。今更、許してくれなんて言うつもりはねえよ。
 だがな、この命くれてやるからには相応の代償が要る。
 お前にそれが支払えるなら好きにしろ」
女がもう一歩下がった瞬間、シローは止めの一言を叩きつけていた。
「さあ、どうする? 言っとくが、俺は黙って殺られるほど殊勝じゃないからな」
睨み合うことしばし。
ややあって、女の口から小さな呟きが漏れる。
「卑怯者……」
「何とでも言え」
それは、元より承知の上だ。
復讐に生きる人間を、その標的の言葉で納得させられるはずがない。
何を言っても、生にしがみつく者の命乞いとしか思われないだろうし、事実それは間違いではなかった。数多の命を手にかけてもなお、シローは生きようとしている。
そんなシローの態度を開き直りと解釈したのか、女は彼を見据えると、忌々しげに言い放った。
「あんたなんか、殺す価値もない……!」
「ようやく気付いたか」
にべもない返答に、女の奥歯が大きな音を立てて軋む。
全ての憤激を押し殺すかのように拳を固く握り締め、彼女は喉から震える声を絞り出した。
「今日だけは見逃してあげる。あたしの気が変わらないよう、祈ってるのね!」
「そりゃどうも……」
シローの軽口にも、女はもう彼の顔を見ようとすらしない。
そのまま、彼女は身を翻して走り去ってしまった。
暗殺者の背中を見送って緊張の糸が切れたのか、リンファンが一気にその場にへたりこむ。
額にはびっしりと汗が浮かび、悪阻(つわり)のためか、気分もすこぶる悪そうだ。
「――大丈夫か?」
壁にもたれていた身体を起こし、リンファンを気遣う。
彼女は顔を上げると、だらりと垂れ下がったままのシローの右腕に目を留め、大きく眉を顰めた。
「馬鹿、まず自分の心配しなさいよ……」
「大丈夫だ、死にやしない」
剣に抉られた傷は出血こそ激しかったが、見た目ほど深いものではない。首の傷も皮一枚を裂かれただけに留まっていたし、身体の痺れは多少ましになってきている。この調子ならば、あと少しくらい時間をおいたところで、手遅れにはなりはしないだろう。
シローは努めて明るく声を出したつもりだったが、リンファンの心配を取り除くには至らなかったらしい。沈んだ表情のまま、彼女は自分の手巾をシローの傷へと押し当てた。元は白かったそれが、瞬く間に赤く染まっていく。やがて、溢れた血がリンファンの指をも濡らし始めたが、それでも彼女は押さえる力を緩めようとはしなかった。
「とにかく、きちんと手当てしないと……まず涼風亭に行きましょう」
『涼風亭』には医師免許を持ったキャロラインがいる。彼女は、同時に神官の資格も持つ“看護師”なので、この程度の傷や毒などは、問題なく癒してくれるはずだ。
――だが、まずは先にやることがある。
いてもたってもいられないといった様子で出発を促すリンファンをよそに、シローの左手は腰のベルトポーチへと伸びていく。
中をまさぐり、彼は目的のものをしっかりと握り締めた。
大きく深呼吸した後、ゆっくりと口を開く。
「――ちょっと、頼みがある」
「何言ってるの、急がないと……」
怪訝な声を上げるリンファンを、シローは左腕一本で強引に抱き寄せた。
彼女の左手を取り、その薬指へぎこちなく指輪を通す。
小さな宝石をあしらったそれは、つい先程、シローが自ら選んだものだ。
決して高価とはいえなかったが――それでも、精一杯の思いを込めて。
驚きに目を丸くするリンファンの手を握り、彼女の顔を真っ直ぐに見て、シローは言った。

「――俺を、腹の子の父親にしてくれ」

もう、後戻りは出来ない。視線は前に向けたまま、内心で天を仰ぐ。
リンファンはまず頬を赤らめたかと思うと、何かを言いかけ、そのまま俯いて黙り込んだ。
肩が、僅かに震えている。
「……か」
「ん?」
小さく漏れた囁きに、耳を傾けたその時。
「この――大馬鹿っ!!」
「がっ!?」
怒鳴り声とともに飛んできた平手打ちをまともに食らい、シローの頭が右に大きく傾ぐ。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
ようやく我に返った後、痛む頬を押さえ、抗議の声を絞り出す。
「お前……それが怪我人に対する仕打ちか……」
「それくらいで死なないわよ」
あれ程心配していたのが嘘のように、ぴしゃりと言い放つリンファン。
思わず絶句しつつ、なおも弱々しく抵抗を試みる。
「……いや、腹の子にも障るし……」
「あなたの子だから、きっと丈夫だと思うわ」
「……」
やはり、口では勝てそうにない。大体、どうして殴られなくてはいけないのか。
必死の思いで勇気を振り絞った結果がこれでは、あまりに自分が報われない気がする。
不貞腐れかけた時、リンファンが迷いのない瞳でシローを見上げた。

「あなた以外に、誰がいるっていうの? 冗談もほどほどにしてよね」

そう言って、拗ねたように口を尖らせる。
自分なりに考えたつもりの台詞だったが、どうやらお気に召さなかったようだ。
ここは、それでも受け入れてもらえたことを喜ぶべきだろうか。
「まったく、本当に馬鹿なんだから」
いかに自分が利口でないと承知してはいても、ここまで馬鹿と連呼されると流石に頭に来る。
お返しに、こんな憎まれ口が口をついて出た。
「……俺が馬鹿なら、お前は馬鹿の女房になるんだぞ」
「だからどうしたっていうの」
険のある目つきで睨んでくる顔が、ちょっと怖い。
「……いや、何でもないです」
これ以上の反撃を諦め、シローは肩を竦めて嘆息した。
――やれやれ、こんなことがこの先一生続くのか。
自ら望んだこととはいえ、ほんの少しだけ考え直したくなってくる。
そんな彼の右腕を、リンファンが掴んだ。
傷口に改めて布を巻き直した後、逆の側に回って、無事な左腕に自らの腕を絡める。

「それじゃあ行きましょうか、旦那様?」

そう言って、はにかむように笑うリンファン。
彼女の左手には、真新しい指輪が誇らしげに輝いていた。


〔執筆者あとがき〕

このエピソードは、本編の第10話から約二年後にあたります。
まだゲームが続いている現状、本来はキャラクターたちの未来を描くべきではないのかもしれませんが……。
エレメンタルスフィアと別に参加している、定期更新RPG『マテリアルウォーズ』にてシローの血を引く子供を登場させた関係上、どうしても書いておきたかった話でもありました。

短編の連作1〜4においてシローが背負ってきた業と、変わらないリンファンの想い。
そういったものを思いつくままに詰め込んでできたのが、この作品です。

勿論、これが全ての決着というわけではありませんが、何とか一つの区切りにはできたのではないかと思います。